コミュニケーション・コストの時代
5年前に「新年だから人類はHTMLを手打ちしろ」という文章を書いて、わりと読まれた。それから新年が来るたびにシェアするようにしていて、私も読み直す。流行り廃りのあるネットサービスに投稿するのはやめて、HTMLを学んで自分のウェブサイトを作ろう! と、筋の通った著者らしい筋の通ったメッセージである。
ただ一方、たとえば私がいま若者で、なにかネットで発信したい欲があったとして、HTMLを学んでウェブサイトを作るか? というと、いやー、どうなんでしょうね。ふつうの若者はそれなりに野心があるだろうし、ウェブサイトを作ったところで満たされるものなのだろうか。もちろん名刺がわりのウェブサイトはあったほうがいいだろうが、そこで継続的に発信したところでどれくらい効果があるかというと、よく分からない。
何をするのが正解なのかは分からない。でも間違いは分かっていて、たとえばXに投稿するのはみんな本当にもうやめようぜ、と言いたい。オーナー自ら対戦型ソーシャルメディアと称する場に、わざわざ参加する必要があるのか。
先日もGrokによる画像編集機能が物議をかもしていたけど(それもまた、被写体をビキニにしろとかいう中学生みたいなノリなのが輪をかけて辛いが)、そもそもXの存在が間違いなのだから、その一挙手一投足を批判しても意味がない。
情けないのが、こんな場にまだ嬉々として広告を出稿する企業がいることで、どうも私が広告業界を離れてから、ブランドセーフティという概念(ブランド価値を毀損するような場に広告が配信されないようにすること)は死語になってしまったらしい。
もちろんXとかFacebookとか、遡ってmixiとか、多くの人が使う支配的なソーシャルメディアがある時代は便利ではあった。そこにいればみんながいるという安心感。いや、現実的にそこに「みんな」はいなかったのだが、みんないるような錯覚はあったのだ。一時期のはてなダイアリーもそう。
でもバベルの塔は崩れてしまい、私達はまたソーシャルメディア以前のような、散り散りのコミュニティの時代に戻りつつある。相手にあわせて訪問先を変え、目的にあわせてツールを使いわける。コミュニケーション・コストのかかる時代になってしまった。
だからこれまでは一つのメディアで声の大きな人が成功しがちであったが、今後はメディアにあわせて声を使いわける、コミュニケーション・コストを苦にしない人が活躍できるのだろう。反対に、私のようなインターネットと一緒に育ってきた世代がどんどん存在感を失っているのは、単純に老化して世代交代が起きているというのもあるだろうが、一つのメディアだけ追いかけていれば良かった時代に安穏としてきて、いまさらコミュニケーション・コストをかける能力もエネルギーもなくなってしまったからではないかと思う。
私は未だに自分のことを「インターネット・ユーザー」だと思うことがあって、それはインターネットがなかったころを知っており、インターネット自体がほとんど一つのコミュニティ=メディアであったころを知っているからだろうが、今の人達にとってはインターネットはインフラで、その上に無数の分断されたメディアがあることが自然なのだろう。
インターネット・ユーザーにとっては、実世界のコミュニケーション・コストとかが面倒だからネットに来たのになあと思わないでもない。でも私はもう良い大人なので、難しいことを考えずにネットの隅っこで犬を撫でて暮らします。
かは分からない。でも間違いは分かっていて、たとえばXに投稿するのはみんな本当にもうやめようぜ、と言いたい。オーナー自ら対戦型ソーシャルメディアと称する場に、わざわざ参加する必要があるのか。
先日もGrokによる画像編集機能が物議をかもしていたけど(それもまた、被写体をビキニにしろとかいう中学生みたいなノリなのが輪をかけて辛いが)、そもそもXの存在が間違いなのだから、その一挙手一投足を批判しても意味がない。
情けないのが、こんな場にまだ嬉々として広告を出稿する企業がいることで、どうも私が広告業界を離れてから、ブランドセーフティという概念(ブランド価値を毀損するような場に広告が配信されないようにすること)は死語になってしまったらしい。
もちろんXとかFacebookとか、遡ってmixiとか、多くの人が使う支配的なソーシャルメディアがある時代は便利ではあった。そこにいればみんながいるという安心感。いや、現実的にそこに「みんな」はいなかったのだが、みんないるような錯覚はあったのだ。一時期のはてなダイアリーもそう。
でもバベルの塔は崩れてしまい、私達はまたソーシャルメディア以前のような、散り散りのコミュニティの時代に戻りつつある。相手にあわせて訪問先を変え、目的にあわせてツールを使いわける。コミュニケーション・コストのかかる時代になってしまった。
だからこれまでは一つのメディアで声の大きな人が成功しがちであったが、今後はメディアにあわせて声を使いわける、コミュニケーション・コストを苦にしない人が活躍できるのだろう。反対に、私のようなインターネットと一緒に育ってきた世代がどんどん存在感を失っているのは、単純に老化して世代交代が起きているというのもあるだろうが、一つのメディアだけ追いかけていれば良かった時代に安穏としてきて、いまさらコミュニケーション・コストをかける能力もエネルギーもなくなってしまったからではないかと思う。
私は未だに自分のことを「インターネット・ユーザー」だと思うことがあって、それはインターネットがなかったころを知っており、インターネット自体がほとんど一つのコミュニティ=メディアであったころを知っているからだろうが、今の人達にとってはインターネットはインフラで、その上に無数の分断されたメディアがあることが自然なのだろう。
インターネット・ユーザーにとっては、実世界のコミュニケーション・コストとかが面倒だからネットに来たのになあと思わないでもない。でも私はもう良い大人なので、難しいことを考えずにネットの隅っこで犬を撫でて暮らします。

