一次元の相性
仲の良いAさんとBさんの二人がいたとする。私も含めて3人でいるときは話が盛り上がるし、Aさんと二人でいる時も良いが、Bさんと二人になると盛り上がらない。そういう関係である。
人間関係には相性がある。AさんとBさんは相性が良い。私とAさんも相性が良い。でも私とBさんは相性が悪い。人間なので、そういうことはある。私も年をとって、誰とでも仲良くなれるわけではないことは分かっている。大人なので、仲が良くなくても、失礼のない最低限の付き合いができるようにはなってきた。
しかしある日、Bさんと仲良くしている人達を考えてみると、だいたい私が仲良く話のできる相手でもあることに気付く。Aさんは誰とでも仲良くできる。Bさんは一部の人達と仲良くできる。私も一部の人達と仲良くできる。そして、二つの「一部の人達」はかなり重複している。
長いあいだ、人間関係とはポケモンの相性みたいに多次元的なものだと捉えていた。みずタイプはほのおタイプに強いみたいな。私がノーマルタイプなのか、かくとうタイプなのか、どく・あくタイプなのかはさておき、世の中には私と相性の良いタイプがいて、相性の悪いタイプがいる。だから、ときどき仲良くできる人を見つけると、相性の良い人が見つかったなと思うのだ。
でも最近になって、人間関係の相性とはもっとシンプルなのかもしれないと感じることが多くなった。要するに、誰とでも仲良くできる「出来た人」がいて、それができない「相性のせいにする人」がいて、そのあいだにグラデーションがある。平たくいえばコミュ力があるか、ないかである。そうすると、相性と思っていたものは、複雑な多次元ではなく、実は一次元ということになる。
いやいや、人間がそんな単純なはずはない。そうは思っている。というか、そう思いたい。でも年を取れば取るほど、人間関係は単純化していくように感じる。
自分と仲良くしてくれる「出来た人」が周囲にいてくれて嬉しい。でも自分が相性だと思っていたのは、ただただ「出来た人」の能力だったのかもしれない。そして私が誰とでも仲良くできないのは、相性のせいではなくて、ただただ自分の能力不足だったのかもしれない。否定したいけれど、否定できない。


