コンピュータおじいちゃん、酔狂な人達、制作するAI
「コンピュータおじいちゃん」というショートショートを書いた。月に一度くらいはショートショートを書こうと思っていたのに、1月ぶんを出すのが2月になってしまった。読んでコメントとかシェアとかしてもらえると嬉しいです。
ここ数年、子供の塾の勉強を見ており、理科や社会は知識不足でなかなか難しい反面、算数はさすがに簡単である。そして国語は面白いくらいよく解ける。私は小さいころから計算がよくできたので、親族からは神童のようにチヤホヤされていた時期もあったが、高校数学くらいになるとだんだんついて行けなくなってしまった。頭の中でイメージができる範囲は良いのだが、それ以上になると頭が働かなくなる。センター試験を受けるころには、現代文が一番得意という状況だった。
今になって国語の試験に出てくる物語文をたくさん読まされると、受験生の時以上に物語の構造というのがよく分かる。そういうわけでショートショートを書くときも、設定のネタだけで終わらせるのではなく、もうちょっと物語を書こう思うのであった。
最近チャットのAIが話題で、あらかた思いつくことは昨年末ショートショートに書いたのだが、それからも日々進化していてなかなか面白い。
たとえばChatGPTはGoogle検索を置き換えるのか、というような話を見かけて、その背景には近年言われるようなGoogle検索の劣化がある。ただ私は常々こうした批判は正当ではないと思っていて、実際に起きていることは検索の劣化ではなく、インターネット(厳密にはワールドワイドウェブ)の劣化ではないか。
かつてのインターネットには、なぜか無料で有益な情報を出しまくる酔狂な人達がいた。私はそんなインターネットの虜になってしまったわけだけど、冷静に考えれば、そんな非合理的な状況が続くはずがない。無料で流布される情報が、ポジショントークや小遣い稼ぎで書かれたものばかりになるのも当然である。そして、そんなネットの情報に依存しているGoogle検索が、ガベージイン、ガベージアウトとなるのも仕方のないことだと思う。
Twitter検索やInstagramの検索、海外だとRedditの検索が評価されているのは、そこにはまだ酔狂な人達がいるという裏返しでもある。
そう考えると、ChatGPTの強みはインターネットにデータを依存しないことで、言い換えればそれはインターネット以降に起きた情報発信の自由化、つまり誰もが自由に情報を発信すれば良い時代が来るというWeb 2.0的なユートピア思想の、終焉と位置付けられる。インターネットが生まれて、いろいろな情報が出てきたけど、やっぱりAIにちゃんとした情報を突っ込んで考えさせたほうが良かったね、みたいな。
ChatGPT自身がコンテンツ制作者であることも重要で、とりあえず情報はなんでも発信したほうが良いというような近年の流行も、AIが終わらせることになるのではないかしら。AIがいたら、人間はアウトプットなんてしなくていいじゃん、ということになったとき、人間はなにをするのかというのは興味深い問題である。
もちろんAIにはまだまだ限界はあって、いろいろな危険性も思い浮かぶのだが、今のインターネットの真面目におかしな情報を発信・拡散させている人達の有様を見ると、早いうちにどんどんAIが普及したほうがずっとマシという、なかなか絶妙のバランスの今日にいるなと感じます。
全然関係ないけど、バート・バカラックが亡くなってしまった。私の世代感覚だと「むかしの人」という感じだったので、エルヴィス・コステロとの”Painted From Memory”(1998年)がめちゃくちゃ良くて驚いた思い出。25年前か……。