つぶやかない
「誰もいない森で木が倒れたとき、その木は音を立てたのか?」という有名な哲学的な問いがあるけれど、最近はその反対のことをよく考える。つまり「往来の真ん中で独り言をつぶやいたら、それは独り言なのか?」と。
もちろん往来とはインターネットで、独り言とはTwitterのことです。
Twitterの怒れる人々を見るのがさすがにつらくなってきて、平穏なタイムラインになるよう調整をしばらく試みていたのだが、このごろはそもそもTwitterの一部にいること自体が良くない気がして、とりあえず書き込むのをやめた。(動画編集の練習はしている。Davinci Resolveって無料なのにすごいね)
Twitterが怒りのプラットフォームになってしまったのは(もちろんそれ以外の有益な、あるいは無為な使い方があることは重々理解しているが)、人間がそれだけ怒りの感情に対して動かされてしまうということなのだろう。ユーザもプラットフォームも一番盛り上がる方法を考えたら、怒りに辿りついたというか。
それを理解して、話題の中心にいるために怒りを焚き付ける人達もいるし、プラットフォームもエンゲージメントを高めるために怒りを促進してしまう。
トランプ現象以降、アメリカではFacebookがすっかり悪のプラットフォームの扱いになってしまって、日本における平穏なビジネスおじさんの日常自慢投稿に慣れているとそのギャップに驚くが、あのときアメリカのFacebookで起きていた社会の分断を誘発させるアルゴリズムが、いま日本のTwitterで起きていると考えると納得できる。
イーロン・マスクが、Twitterでフォロワー数の多い有名人でも、投稿を続けてる人はほとんどいないじゃん、みたいなことを(Twitterで)煽っていたが、どうもTwitterとFacebookは日米で役割が入れ替わっているようだ。
いずれにせよ、日本のTwitterはもはや「日常のつぶやき」プラットフォームといった生易しいものではない。「政治的主張」のプラットフォームくらいに考えたほうがいいのではないか。本人の意図と関係なく、なにを言っても政治的主張と捉えられてしまう世界。キャラクターも青い鳥などではなく、トラメガを持った化物とかにしたほうがいい。
あんまり具体的な例は挙げたくないのだが、たとえば最近「リトルマーメイド」の実写化が発表になって、主演のキャスティングにいろいろな意見があった。そういう意見に対して批判があったり、そういう批判をポリコレだと批判したり、そこからはまあいつもの終わりのない戦いである。
そういったTwitter論争が起きるたび、どちらが正しいという以前に、他人の「つぶやき」なら別にどういう内容でも良くない? と私は思う。もちろん政治家や経営者が差別的に捉えられるような発言をしては問題だろうが、匿名の市井の人間が自分の感想をどう言おうと、よほど脅迫的な内容などを含まなければ、どうでも良くないか?
でも現代人は知らない匿名のつぶやきでさえ、自分たちへの批判として受け止めて対峙してしまうのである。
Twitterは中身としてはどんどん往時の2ちゃんねる化しているが、2ちゃんねると違うのは、匿名のどうしようもないコメントでマジに取り上げて議論する人達がいることだろう。しかも引用リツイート、いいね、トレンドといった一つ一つの機能が、それを促している。1000レスで終わることもない。
そうした機能やアルゴリズムが今日の惨状を招いたのだから、これから新しい機能やより良いアルゴリズムによって世の中が良い方向に向かう可能性もないわけではないが、どうでしょうね。そもそもプラットフォーム以前に、怒りを叩きつける楽しさを味わってしまった人達が、平和な時代に戻って適応できるのだろうか。
要するに、Twitterで「つぶやく」時代は終わったのだなーと感じます。