良い文章はどこにある
追悼文に対して良い悪いというのはおかしな話かもしれないが、村上春樹が書いた小澤征爾の追悼文はとても良かった。このように良く書かれた文章をインターネットで読んだのは、久々だったかもしれない。
文章を書くというのは、誰にでもできる。だからインターネットには色々な人が書いた、たくさんの文章がある。しかし、良い文章を書くのはなかなか難しい。バットをスイングすることは誰にでもできても、誰もが大谷になれるわけではない。
具体例を挙げたほうが分かりやすいだろうから、たとえば『旅がつまらなくなる8割の原因は「交通機関を利用すること」だと思う 』という、やけにブックマークされた匿名ダイアリーの記事を挙げるが、これは交通機関の定義が不明でなにを言いたいのか分からない。なぜ電車バスを使うと感動が無いのに、私鉄は使うのか。私は人が良いので、本当はなにを書きたかったのかつい考えてしまうのだが、たぶんこういう質の悪い文章など最初から相手にしないほうがいいのである。
でもこれに限らず、ネットの記事はなにが言いたいのかよく分からないものが増えてきた。書きたいことのニュアンスを細々と突き詰めると、どうしてもやたらと長文になってしまうのがネット文章あるあるだったはずだが、最近は自分の主張が伝わるに違いないという自信があるのか、まともな説明もないまま言いっ放しにする文章が増えた。読み解く側の負担は増すばかりである。
良い文章を書くのは難しいので、良くない文章が蔓延することは仕方がないかもしれない。問題は、大谷は見るからに強打者で、それは何球か試してみればすぐに分かることだが、文章を書く能力というのはなかなか一目には分からないし、書いた文章が良いか悪いかも自分ではなかなか判断がつかないということである。文章力がないと文章力がないということが分からない。
そのかわり現代には、いいねとかシェアとかの評価があって、これはちょっとした工夫で獲得できる。極端な言葉遣い、すこしのクリシェ、エモーショナルな響き(ここで一つ、最近特に醜悪だった例を挙げようと思ったが我慢する)。
私自身、こうすればネットでウケるんだなと分かってしまったことがあるが、そうした文体とはうまく距離を置かないと、ただの扇動屋なのに自分が大谷のような能力を持っていると錯覚してしまう。
ネットだけではなくて、このごろは新聞の記事を読んでも、そうしたネットの文体に影響を受けすぎて、なにを言っているのかよく分からないことが増えてきた。記事のタイトルや見出しが簡潔に内容を説明してくれれば、中身が多少の悪文であっても許されるのだろうが、実際のタイトルはクリックさせることだけを考えたナゾナゾみたいなものだったりする。なぜ私は新聞社に課金して、ナゾナゾを解かされているのか。
ここ数年、子供の受験勉強に付き合ううち、だいぶ色々な文章を読んだ。私は日本人作家の小説をあまり読まないのだけれど、受験に使われるような小説はさすがに良く書かれている(論説文のほうは変なものも時々見かける)。良い文章と定期的に触れ合う機会があるというのはいいものである。大人も良い文章を定期的に読むように心掛けないといけないし、残念ながらそれはネットを見ていてもほぼ満たされないのだと、村上春樹の文章を読んで逆説的に感じた。