逆張りから追従へ
今回はいつも以上に私の感覚の話なので、異論があれば言って欲しいのだけど、と前置きはしました。
昔のインターネットでは、とにかく言いたいことを言って注目を集めるのが流行っていた。だから、例えば何かの本や映画などが流行った場合は、当然のように「あんなものはつまらない!」という逆張りを言う人達が出てきた。
ソーシャルメディアの普及以降、そういう逆張り人間は徐々に見かけなくなった。もちろん、おかしなことを言っている人は今も昔もいるが、反対するために反対するみたいな態度は流行らなくなった。
というのも、ソーシャルメディアの時代で話題になるためには共感される必要があって、世の中の流れに逆らいながら共感を得るのは非効率である。すでに知名度のある有名人が、俺はちょっと世の中と違う意見があるのだけど~みたいに言うなら、まだ人は耳を傾けるかもしれないが(それも今やリスクのある行為だが)、知名度のない一般人が逆張りしても、もはや誰も見向きもしない。
だから今日では、みんなが褒めているものは別の角度から改めて褒め、みんなが叩いているものは別の角度から改めて叩くというのが、効率的に共感と話題を集める方法になった。逆張りの時代から追従の時代になったと言っても良い。
逆張りの時代が良かったと言うつもりは全くない。ただ逆張りの時代では、ぬるいことを言うとすぐにまた反論(逆張りの逆張り)が飛んでくるという緊張感があった。追従の時代ではぬるいことを言っても、なんとなく世の中の流れにあっていれば許される。後で世の流れがまた大きく変わらなければ。
ソーシャルメディアには「いいね」だけでなく、「よくないね」も必要だ、と言われることがある。そうすれば、賛成している人達だけではなく、反対している人達も可視化されて、バランスのとれた言論空間になる、というような。でも私は「よくないね」が実装されたら、みんなが「よくないね」と思っているものにみんなが「よくないね」と言うだけではないかと思う。
そう考えると、本当に必要なのは「どうでもいい」ボタンなのだ。素晴らしい発明! しかし残念なことに「どうでもいい」と思っている人の大半は、「どうでもいい」ボタンがあっても押さない。だって、どうでもいいのだから。
だから結局は、どれだけ「いいね」を集めても、あるいは批判を集めて炎上しても、その背後には恐らくずっと多くの「どうでもいい」があることを、各自が常々意識していないといけない。
そういえば最近、父の通夜より嵐のライブコンサートを優先したとかいう話が話題になっていた。私は本当にどうでもいいと感じて、大人は誰の指図も受けずに好きに生きろと思い、たぶんそれくらいまでは多少の共感を得られると思うが、私自身はより一層ラディカルなので、人の死は避けられないのにそれに関わる儀式を原則として子供が負うという設計に問題があるのだから、死は出生と同じように役所が無償で事務的に対処して、葬儀というものはなくして家という枠組を解体し、集まりたい有志がいるならその人達が寄り合って集まれば良い……と思った。
そしてこれくらいまで行き着くと、たぶん、どうでもいい論もどうでもいいと言われるのだと思う。


