アルゴリズムではない
アルゴリズムという言葉がこれほど一般的に使われるようになったのは、いつ頃からだろう。私は情報学専攻の学生だったので、本来の意味でのアルゴリズムについて学んだけれど、今ではもっと広い意味でアルゴリズムという言葉が使われるようになった。
たとえばFacebookやXのフィードとか、YouTubeのリコメンデーションとか、なんだかよく分からないルールでコンテンツが表示される仕組みがある。そのルールのことが昨今ではアルゴリズムと呼ばれている。そして、アルゴリズムは私達にとって最適化されたものであり、社会にとって最善の仕組みであるかのように喧伝されている。
テック企業が自分たちのアルゴリズムについて語る時、私にはどこか責任転嫁のように聞こえる。自分たちがやったんじゃありません、アルゴリズムがやったことです、というような。Xが扇情的なコンテンツを流すのも、YouTubeが陰謀論を広めるのも、それが私達が望んだアルゴリズムの結果であるかのように。
しかしもちろん、アルゴリズムを作り、都合よく調整しているのは、私達ではなくテック企業である。
私がFacebookで働いていたとき、マーク・ザッカーバーグが「これからの時代は動画や!」みたいなことを言った時があった。そうするとFacebookに流れるコンテンツは動画ばかりになった。360度回転するパノラマ画像が贔屓にされた時代もあったし、ニュースメディアが重宝された時代もあれば、友人からの投稿ばかりになったり、逆にリンクつきの投稿が全然表示されなくなることもあった。
最近ではXでリンクつき投稿がまったくアルゴリズムに評価されないらしく、かわりに長文記事ばかり流れてきたりするという。そうしたくなる理由は分かる。リンクに興味を持たれるとユーザーは外部サイトに「離脱されてしまう」が、長文記事だとXから離脱されてしまうことはない。つまり、どこまでも自己中心的なアルゴリズムである。
いずれにせよ、そうやってアルゴリズムは企業の都合が良いように書き換えられていく。YouTubeが「長尺であれ」といえば長尺が中心になり、「縦型ショートであれ」といえば縦型ショートばかりになる。それはまるで神託であり、それに従わない者は異端とされる。たとえばYouTubeのサムネイルで煽らない者、Xで未だにリンク記事を投稿している者は、プラットフォームに言わせれば神託に従わない、愚かな異端であろう。だがアルゴリズムの内側にいるのは神ではなく、経営者である。
だとすると、そんな恣意的で流動的な仕組みのことをアルゴリズムと言っていいのだろうか? と修士(情報学)の端くれとしては思うのである。それってただの経営戦略では? スーパーが週末にセールの日用品を店頭に並べることをアルゴリズムとは言わない。だったらYouTubeが縦型ショートばかり押し出すのも、アルゴリズムとは言わないのではないか。そうした仕組みは経営戦略と呼ぶべきだと私は思う。誰が主導して、誰に責任があるかを明確にするために。
AIの時代だから、アルゴリズムという言葉はこれから廃れていくのかもしれない。かわりにAIという言葉が濫用され、アルゴリズムと同じかそれ以上に、それが社会に最適化された最善なものであるかのように言われている。真の正しい「知」があって、OpenAIもGoogleもAnthropicもそこに向かって真っ直ぐ進んでいるかのように。しかしXのGrokがイーロン・マスクによって何度も矯正されたように、AIだってもちろん企業によって都合良く調整されたものにすぎない。
これからAIが普及するほど、なにも考えず「AIが言ってたのだから正しい!」「AIはこう言っているから従うべきだ!」と言う人達が増えていくのだろうと思うと憂鬱だが、AI企業はそうした人達を止めようとはしない。一方で、いまアルゴリズムの責任を取ろうとしないように、AIの言動が批判されてもその責任を取ろうとはしないだろう。世の中ではAIの脅威などと言われているけれど、私は無責任なAI企業のほうが脅威ではないかと思う。

