明るい日々の話ばかり書いておきたいのだが、ドナルド・トランプの就任式と、イーロン・マスクのナチス式敬礼を見た日は、さすがにがっくり来た。
悲しいのは、世界一の金持ちがあれだけはっきりとナチスの物真似をやっても、大勢の人達がナチス式だと認めようとはしないことだ。メディアでさえ「ナチス式かと指摘も」「ナチス式と物議」「ナチス敬礼のようなポーズ」などと書いている。私はもうマスクがガス室を作っても驚かないけれど、それでもメディアは「ガス室との指摘」とか言うんだろうね。
そういう意味では、変な話だが「あれはナチス式ではない、熱狂的にトランプを支持してみせただけ」という擁護派のほうが筋が通っている。少なくとも、ナチスだと思われたくないという、はっきりとした認識があるわけだから。メディアや多くの人が「ナチス式ともとれる(が、それ以上は考えない)」とお茶を濁している状況はかなり深刻だ。
Redditで引用されていた文章:
「党は、自らの目と耳から得た証拠を拒絶せよと言った。それは彼らの最後の、最も本質的な命令であった」(「1984」ジョージ・オーウェル、私訳)
ところで、Instagramでは就任式のタイミングで#democrats(民主党)などの検索結果が表示されない不具合が発生していたという。
Metaのアルゴリズムが、絶妙の間で、党派性により恣意的に操作されていたとは思わない。一方で、私達の生活をコントロールするアルゴリズムがこれだけ脆弱であるというのも、同じくらい悲しい話ではある。悪意と無能と、どちらがマシか。
サイバーパンクではよく、人間の五感がデジタル化され、その結果として他人に乗っ取られるというような話がある。現代では、幸い眼球こそまだ自分のものだけれど、私達が一日中スマホを見ていて、そこに表示されるコンテンツが他人にコントロールされていたら、それは視覚の乗っ取りと同じではないか。
だから私はせめてものの抵抗として、Twitterに続き、InstagramとThreadsをやめた。友達がいるから時々は読むけど、もう投稿はしない。
いつだってオルタナティブな選択肢があるのがインターネットの良いところで、新政権下でまたネット中立性が破棄されそうな中、そうした状況もいつまで続くか分からないが、それでもインターネットがコントロールされづらいメディアであるのは確かだろう。あとは自分をインターネットの中で、コントロールされやすいプラットフォームに身を置くか、されづらいプラットフォームに身を置くかだと思う。
そんな中で、LGBTの子供たちや、働く移民たちに慈悲を与えるようトランプを諭した司教の言葉が話題になっていたので、全編を見てみた。件の部分は最後の最後で、それまでは団結(unity)をキーワードに、尊厳(dignity)、 誠実(honesty)、謙虚(humility)について語っている。
私は無神論者だけど、大統領選の結果が出てから、権力者にすり寄ろうとする動きばかり見せられていたので、こういう真っ当な意見が、ものすごく新鮮に見えた。
そういうわけで、あまり暗い話は書きたくはないのだが、書くべきことは書いておかないと、と思うのであった。
おまけに、もう一つRedditで見つけた絵。神の教えを無神論者が支援し、相手側にはキリスト教国家主義と資本主義がいる。変な時代だ。