やりがい搾取の反対
この十年で、やりがい搾取という言葉はすっかり認知度を得た。やりがいのある仕事と、それを餌にした搾取、すなわち低賃金をはじめとする過酷な業務環境のセットである。この言葉がこれだけ使われているのは、言葉の指す環境がそれだけ一般化しているということだ。
一方、最近はその反対もあるなと思う。反対ということはつまり、やりがいのない仕事と、高賃金をはじめとする恵まれた環境のセットである。
これだけ聞くと、幸せな話じゃないかと思うかもしれない。でも仕事にはやりがいがない。具体的には書かないけれど、それなりに年をとって、そういう例をわりと目にする。
そもそも、やりがいのある仕事というのはなにか。クリエイターから農家まで、ものづくりに関わる仕事とか、教育関係のような人と関わる仕事が挙げられることが多いようだ。自分のやった仕事が物や形になったり、目に見えて世の中に影響を与えていくような仕事は、やりがいを感じやすいらしい。
対して、やりがいのない仕事は世の中に影響を与えない。与えているのかもしれないが、その実感がない。もしかすると、悪いほうに影響を与えている例もあるかもしれない。そういう仕事では自分の尊厳を保つためのものが必要になる。一番分かりやすいのが金で、それから肩書、(職場での)権力である。
社会人として生活していると、本当に金と肩書と権力にしか興味のないビジネスパーソンが多いことに驚く。仕事にやりがいがないので、そういう指標でしか満足できない。しかし、それらはすべて相対的な指標なので、出世して良い肩書になって権力が増えて金持ちになっても、欲望は留まることはない。
そういう人達は、自分がなぜそれだけの高給に見合うのかと問われたら、自分は高給だから、そして周囲にはもっと高給の人間がいるからだと答えるだろう。トートロジーなのだが、現実に多くの仕事の待遇が、トートロジー的に決定しているように思う。そうやって欲深い業界に欲深い人達が集まり、欲深い待遇を求めていく。金持ちになったら、もっと金持ちにならなければいけなくなるのである。そして、その皺寄せは他へ行く。
そう考えると、やりがいのない人達も不幸ではある。ただ欲望を追い求められているだけ、不幸な中では幸せであって、やりがい搾取が問題視されているのとは異なり、こちらは、当人以外たちは、どうなろうとどうでもいいのかもしれない。
あんまり具体的に書きたくないので、今回はすごくぼんやりした話になってしまったし、オチもないのだが、せっかくの「たよりない話」なので本当はもっとぼんやりしたことを書きたいのである。