誰かに頭の良い人と思われたいなら、学歴や職歴や資格や論文や著書などが役立つこともあるだろうが、それはそれとして、日々の言動でも頭の良さを示さなければいけない。しかし現代では、そのために与えられる時間はあまりない。誰も人の話を長く聞こうとしないし、誰も人の文章を140文字以上読もうとはしない。
そういうわけで今日における頭の良さには、瞬発力が必須である。難しく、込み入った問題を、簡潔に分かりやすく伝える。伝えるというか、斬り捨てるのである。テレビやYouTubeで求められる10秒のコメントであれ、新聞やXで求められる数行の解説であれ、同じこと。頭の良さとは、今や問題を斬り捨てる判断のことだと言っても良い。
しかし複雑な問題は、実際のところ、簡単には斬り捨てられないから複雑な問題である。無知な人間ほど問題を簡素化し、分かりやすく斬り捨てるのに対し、問題を熟知している専門家ほど説明が曖昧になっていくのは、ある意味では当然のことだろう。なぜなら専門家にとって簡単な問題は専門家によってすでに解決されているだろうから、残された問題は専門家にとっても難しい複雑な問題ばかりなのだ。
ここまではよくある話だが、最近よく思うのは、問題を斬り捨てて、頭の良さを示したいがために、逆説的に、問題の詳細を知ろうとしない人達が増えているのではないかということである。問題の複雑さを知ってしまうと、簡単なことは言えなくなってしまう。だから、そうしたところには目を瞑って斬り捨てる。頭が良いことを示したいが故に物事を学ぼうとしないというのは、どうも矛盾のように思うのだが、効率性という意味では整合性がとれているのだろう。
問題を斬り捨てると、騙された素人たちは、なんて頭の良い人だと称賛してくれる。専門家たちは瑣末なことをグチグチと言ってくるかもしれないが、だいたいの専門家たちは個々には声が小さいし、団結することもないから、無視しても良い。万が一、大事になって炎上しそうなら、もちろん勉強不足でしたと素直に謝る必要などなく、そういう見方もあるのですね、なにしろ140文字しか書けないもので説明不足になってしまい、誤解を招いたらすみません、とでも言っておけば良いのだ。
私は寛容な人間なので、そういう戦略をとってマスメディア、ネットメディアにご意見番として重宝される頭の良い人がいても良いとは思うのだが、そういう人達が問題を斬り捨てたとき、一番に失われるのが、最も弱い声であることもまた自然なことだとは、なんとなく意識するようにしている。頭の良い人達は、問題を斬り捨てたとき、想定される反発を一通り考えて(あるいは考えないのかもしれないが)、そのリスクを最小限に留める。ここで言う「リスク」とは弱い声を持つ現実の人間なのだが、頭の良い人達にとっては認知できない存在らしい。
インターネットというのは弱い声に力を与えるツールだと思っていて、Web 2.0やらソーシャルメディアやらもその延長にあるのだと考えていたが、インターネットがどんどん人気コンテスト化していく現状を見ると、どうも私の見立ては間違ってようで、それでは他に期待できそうな次世代のテクロノジーはあるのかねえと思っても、AIなんかは論外で、他にもあんまり見当たらないように思う。