炎上広告批評のむずかしさ
数年前、企業の広告やマーケティングの炎上が、毎週のように起きる時期があった。私はそのうちの幾つかの解説を、炎上広告批評というタイトルで書いた。なにしろネタには困らないし、一つ一つの解説だけではなく、数が集まれば分類・対策も整理できて、面白いコンテンツになるのではないかと思ったのである。目指すは令和の天野祐吉。朝日新聞の連載になる日も遠くはない。
(若者向けに解説しておくと、むかし天野祐吉というコラムニストがいて、広告批評という雑誌を出したり、朝日新聞にCM天気図という連載を持ったりしていた)
けっきょく数回書いてやめてしまったのは、もちろん生来の飽き性だからというのもあるし、この路線がとても上手く行って炎上広告の専門家になったら嬉しいかというと別に嬉しくないというのもあった。
最近、Doveの広告が炎上して、炎上広告批評を続けていたらどうなっただろうなとちょっと思った。Doveの広告は、美の多様性を謳うために、まず現代の美を定義するという入れ子構造になっており、そのわざとらしさが批判されている。おかげで私もバッカルコリドーという概念を学んだ。
こういう広告が炎上すると、私が炎上広告批評で書いたように、広告はこうすべきだった、ああすべきだった、という意見が出てくるのだが、今回はそうした批評さえ批判されているというか、滑っているように思う。
というのも、すごく身も蓋もないことを言うのだが、炎上広告の反対はなにかというと、企業や業界人は炎上しない広告、それでいてブランドイメージや認知度や購買意向が向上するような素晴らしい広告を考えるわけだけど、一般の消費者にとってはそんなの知ったことじゃないのである。一般の消費者にとって、炎上広告の反対は広告がないことなのである。
だから、たとえばDoveが表現のあれこれを変えたら、もっと美や多様性について前向きに伝えられたのではないかというのは、どこまでも業界の発想で、消費者にとってはそもそも、企業に美や多様性についてどうこう言われたいと思っていない。
私は広告業界にしばらくいて、そういう「いらないもの」を作るのがあの業界の面白いところだと思ったが、あまりに「広告はどうあるべきか」ということを突き詰めると「いらない」のが一つの正解ということになってしまう。そういうわけで、炎上広告批評はやっぱりやめて正解だったなと思うのであった。