リスキリング、絶滅危惧種、カメラ、カメラ、カメラ、破壁人、浮世離れとボブ・ディラン
ふだんは極めて社会的で論理的な生産的な生活を送っているため、正直もうインターネットにはしょうもないことしか書きたくない。たよりない話、と言ってるくらなわけだし。
最近、リスキリングと聞くたびにリスの暗殺者を思い浮かべる。
リスの暗殺者は多分こんな感じである。
ちなみに、このカードはとても強い。
ミッチ・ヘドバーグのジョークに「寝るときに絶滅危惧種を数えるのはやめろ。数え終わるぞ」というのがあって、すごく良い。くだらないし、残酷だし、その通りである。こういうことが言える人間になりたい。そうするとつまり、スタンダップ・コメディアンになりたいということになってしまうのだが。
ウディ・アレンのジョークに「脳は2番目にお気に入りの器官なんだ」というのもあって、これも良い。
私は極めて社会的で論理的な生産的な性格のため、どうしても真面目な人間と思われてしまうのだが、本当はボケてボケてボケ倒すような毎日を送りたい。このまえも海外出張中に渾身のボケとして英語のニュースレターを出したが、中身にはコメントをいただいたものの(ありがとうございます)、英語であることにはほとんど誰もツッコまれなかった。
もっとボケないといけない。まじめ人間になってしまう。
問題は、そういう人間性が求められる職業というか場面がなかなか見当たらないことである。吉本新喜劇くらいだろうか。あったら教えてください。
たとえば、最近つい考えてしまうことなのだが、近頃のスマホは高過ぎるので、綺麗な写真を撮りたい人向けに写真だけ撮影できる安価な端末があればいいのじゃないだろうか。スマホで写真を撮影するアプリのことを「カメラ」と呼ぶから、端末の名前も「カメラ」がいいかもしれない。小さくてポケットに入る「コンパクトカメラ」とかがあったら売れるかもしれない。
そういうことばかり考えて、少しずつ現実的な問題から離れていく。浮世離れしたいのだが、そう思っているうち浮世離れすることはできないのだろう。
いま「三体」を読んでいて、正直なところ最初はあまりピンと来ずページが進まなかったのだが、破壁人が出てきたあたりで良くなってきた。現実的なところから始まって、少しづつ現実的でないところへ進んで行くのが、フィクションの良さだと思う。
現実にもそのようなセンス・オブ・ワンダーがあれば良いのだけれど、現実の毎日の中で、どうやって少しづつ現実的でない生活に道を踏み外すことができるのかは、よく分からない。
そうやって浮世離れに成功したとして、現実的な生活も送らなければいけないのが、現実の難しいところである。誰かかわりに晩ごはんを作ってくれるならいいのだが。
ちなみに、私はたぶん、けっこういい破壁人になれると思う。社会的で論理的な生産的だから。
そういえば先日、ハロウィンでもないのにハロウィンみたいな格好してる人が多いなと思ったらハロウィンだった。自然なボケである。ボブ・ディランの”Time Out of Mind”というアルバムがあるけれど、あれはディランが56歳の時のアルバムである。私も56歳くらいになったら、そういう境地に立てるのだろうか。あと40年くらいあって、先は長い。