正常な人間
世の中には嫌なことがあっても一晩寝たら忘れるという人と、寝ても起きても覚えているという人がいる。ご存知の通り、私はたいへん柔和で温厚だけど、他人のひどい仕打ちなどは、自分に起きたことであれ周りに起きたことであれ、よくよく記憶して決して忘れない。おかげで寝ても覚めても昔のことを思い出して苛々してしまうことがある。
一方で、世の中には切り替えの早い人というのがいて、さっきまで怒っていたはずなのに、気付くとニコニコしていたりする。
そういう人達を観察していると、単純に切り替えの早い、切り替えの上手い人というのもいるのだが、嫌なことは一晩寝るまでもなく忘れてしまうという人もいて、「さっきまで怒ってたじゃん!」と私が指摘すると「そうだっけ?」と、もう覚えていなかったりする。健忘症なのか? と心配になるほど。
もちろん私は経緯をちゃんと記憶し、相手のかわりにまだ苛々していたりして、実に義理堅いが、最早なんのための怒りなのかよく分からない。
私も中年になって、いつも機嫌の悪い人間ではいたくないなと思う。だから世の中の理不尽とか、あれやこれやの過去の嫌の思い出とかを噛み潰しながら、なんとか機嫌良く生きようとしている。でも色々なことを覚えていて、忘れられない。ふだんは記憶力が悪くて苦労しているのに、自分や周囲が苦労したことは隅々まで覚えているのだ。なぜ。
おまけに最近になって気付いたが、そうして嫌な思い出を隠しながら、それでも表面的には機嫌良くしていると、なんだか少し狂人じみてくる。たとえば私が心の底では嫌な思い出を抱えて憎んでいる人がいたとして、その人と表面的には笑顔で応対していても、不穏な空気を隠せない。自分の感情を隠すのが下手なのだろう。正直で素直なので。あれやこれやをちゃんと記憶しているので。
あるいは機嫌の良い時でも、少し込み入った話の出来る相手がいたら、すぐ暗い感情を剥き出しにしてしまったりする。さっきまで仕事の笑い話をしていたはずなのに、気付いたらムカつく上司の話をボロカスに言っていた、というような。機嫌良く振る舞う自分と、素の暗い自分があって、その中間がない。目が笑っていないと言われることもあって、どうやら笑顔を作っても、目を笑わせるのは難しいらしい。
私はそういう人間なので仕方がないとして、気になるのは、世の中のいつも機嫌の良い大人たちは、どうしているのだろうかということだ。本当にいつも機嫌が良く、悪いことは蓋をしたり忘れたりできるのだろうか。それとも、暗い感情を抱いていても、それをただ隠すのが上手いだけなんだろうか。私がまだそういう人達の信頼を得ておらず、暗い感情を引き出せていないだけなのだろうか。
ということを考えながら、このまえ完全版の出た「薔薇の名前」を買って再読していたら「正常に見える人間は卑小な輩にすぎない」というフレーズが出てきて笑った。ウンベルト・エーコの口が悪すぎる。もちろん私はそんなことは言わないし思わないけれど、ウンベルト・エーコがそう言うならそうかもしれない。狂人と矮小な輩とどちらがマシかは難しいが……。

